![]() |
|
| ■南部藩時代 |
![]() |
明治初めに外国人が写したと言われる盛岡城 (盛岡絵地図より引用) |
|
| 盛岡市や盛岡近郊には縄文時代の遺跡がたくさんある。山沿いを中心に多くの人々が生活を送っていたのは、住みやすい土地だったのだろう。だが、歴史の舞台に盛岡の地が登場するのはもっと後、平安時代になってからのことである。東北経営に乗り出した朝廷の命を受けて征夷大将軍坂上田村麻呂が、雫石川下流に大規模な志波城を築いたのが延暦20年(802)。大規模な築造からみて当時から軍事、政治の拠点として位置づけられていたと考えられる。 その後、200年程を経て豪族安倍氏が台頭し、周辺を勢力下に置いた。安倍氏は雫石川の北側に厨川の柵を築いて、朝廷軍の源義家と争った。前九年の役(1051〜1062)で安倍氏が破れ、厨川の柵も崩壊した。 現在の盛岡の街が築かれたのは南部氏が進出してからである。源頼朝が平泉の奥州藤原氏を討った時、戦いで功績を挙げ二戸、三戸地方の地頭に任じられた。その後、26代信直の時代に、加賀前田家からの勧めもあって勢力の南端の盛岡に城を構えることになる。築城の許可を与えたのは秀吉。当時の朱印状が現在も大切に保管されている。 諸説には、一般的には慶長2年(1597)に工事着手したとされている。実際の工事には嫡子の利直が当たり、城下町が23町に区割りされて完成したのは元和年間(1615〜1624)と言われる。不来方城が南部氏の正式な居城となるのは、さらにあとの寛永10年(1633)という。実に20年から30年余をかけて一つの城づくりを進めたことになる。 盛岡の地に城下町を築くには厳しい地形的な条件があった。多くが沼地で、高松に池を作って水抜きをするなど難工事だったと言われる。城自体も本格的な石組の頑固な造りで、石垣の美しさは秀吉が築いた大阪城に匹敵するとも言われる。 多くの財力を投じ、幾多の困難を克服しながら多くの年月をかけて築いた背景には、やはり秀吉の後ろ盾があったと見てもいいだろう。奥羽の覇者伊達政宗に対する北の備えとして期待されたというのが一般的な解釈になっている。 城を築く際に城奉行として指揮を取ったのは、前田家の家臣だった内堀伊豆という人物だったという。その後、内堀伊豆は重臣として南部家に仕える。城普請には、秀吉から専門の職人たちが遣わされたことだろう。秀吉にしてみれば、一刻も早く伊達政宗を牽制する城を築く必要に迫られていた。盛岡城が壮大であればあるほど良かったことだろう。 この後徳川の時代に移ってなお南部家は重んじられることになる。 |
||
| ■安政年間(江戸後期)時代 |
![]() |
川井鶴亭によって150年前に描かれた盛岡城下鳥瞰絵図 (盛岡絵地図より引用) |
|
| 奥州街道筋で、盛岡城下の新山河原に河原町と仙北丁を結ぶ重要な施設「舟橋」があった。北上川はこの付近で雫石川と中津川と合流して大河の様相を呈し水量も多い。 川を渡るには当初は舟渡しで、寛文5年(1665)に土橋が架けられた。しかし、洪水で橋が流失してしまい、天和2年(1682)になって舟橋を創設したと伝えられる。 この舟橋は、川原丁12隻、仙北丁12隻の計24隻で構成されていたが、河川敷変化や時代によって船数に相違があった。「江戸自慢」には南部舟橋48隻とあり、江戸時代の大橋づくしの前頭二枚目であった。 これらの舟を両岸の巨大な親柱と中島の大黒柱に鉄鎖で係留し、舟上に厚く大きな敷き板を並べて人馬の往来を許した。 天保11年(1840)7月には、14日間におよぶ川止めが記録されている。この橋の各舟には「駒除け板」という往来馬の避難所が装備されている。南部ならではの大きな特徴である。新山川岸は北上川舟運の基点であり、この場所に物留御番所が置かれ、川原丁・仙北丁とも大いに栄えた所であった。 |
||
| Copyright(c)2008 WORKSHOP EL. All Rights Reserved |
| ワークショップ・エル TEL.019-697-4417 FAX.019-613-2212 〒028-3601 岩手県紫波郡矢巾町高田11-2-3 |